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靄山アラカルト


名称「もや」の由来

1 藩政末期の紀行家「菅江真澄」は、紀行文「おがらの滝」(文化 4(1807) 324)秋田県八森町の母爺(もや)の薬師峯で「もや」とは蝦夷のことばで「靄」をいうのであるが、陸奥では、独立してそびえる山を「もや」というようだ。蝦夷(ことば)が転化して使われることが多い。陸奥・出羽の人はねもっぱら、高くそびえて、つねに雲霧にかくされている山を「もや」というので、なるほど「()()」の意と知ることができる。「もや」と呼ぶ山は各地(奥羽)にたいへん多い。と記している。


2 市浦村史第壱巻には、アイヌ語では「神さまのいらっしゃる小さい山」という意味になるわけである。安東()氏に縁りのある城址近くには不思議に、このモヤ山(元山・本山・雲谷山)がつきもののようである。と掲載されている。

「もや山」名称(Tの図参照)

1 東日流外三郡誌年表巻末地図類に出てくる「靄山」名称

@   巖鬼山 寛政 5 6(秋田孝季孝図)に文永之頃之図面写(12641274 鎌倉幕府・時宗時代)に表記されている。

A   日本山 モヤ山トモ称ス 荒磯郷神護寺之図に表記されている。

建武 2(1335)年の東日流外三郡誌欄に記載あり

B   四方拜宮 巖鬼山 神護寺附近地図に表記されている。

C   巖鬼  胎蔵界寺図に表記されている。

2 江戸時代の山沢図にあらわれる表記名

@    雲谷森 藩政時代の山沢図「津軽郡中御澤帳(享保の頃)」に表記されている。

A    雲谷森 藩政時代の山沢図「津軽藩領山林圖(江戸時代)」に表記されている。

3    藩政末期の紀行家「菅江真澄」の外浜奇勝の図にあらわれる表記名

寛政 8(1796) 623

「木々の間から望むと、岩木山がなかばほど、南の雲のきれめから姿をあらわし、東は太倉が岳(大倉岳)、袴腰山、西に遠く深浦のこちらの鶏栖崎、近くは母夜(もや)、あるいは薬師ながね、十三の部落は……」、「中島、母夜(もや)山のふもとをめぐって脇元の部落をすぎ、薬師長峰の麓を経て……」と表記され、二枚の図には

@    壬 磯松浦母也(もや)たけ

A    乙 もやたけ

と、それぞれ描かれている。


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